中山のりひろが代議士秘書だった2004年、慶応義塾大学総合政策学部の学生さんによるインタビュー記事を掲載します。
(タイトル、リード文はじめ、当時のまま)

『 挑戦するための保守 ~ 中山展宏さん 』

【 なかやま のりひろ 】

一九六八年、兵庫県生まれ。大学卒業後、銀行系証券会社に入社。証券市場分析、債券・金融デリバティブのディーリング等に従事。三十歳で政治を志し退社、代議士秘書となる。現在は神奈川県藤沢市に地元事務所を構える、衆議院議員 自民党金融専任部会長・江﨑洋一郎氏の統括秘書として、忙しい毎日を送る。
三十六歳、代議士秘書。何事にも如才なく、慎重で重厚な人を想像してしまいがちだが、中山展宏さんは、若々しく活発な青年という印象だ。証券会社を辞め、政治の世界に飛びこんだのだから挑戦的な人かと思いきや、冷静で保守的な考えも併せ持っているようだ。中山さんは何を思い、政治界に足を踏み入れたのか。

【 秘書だっていろいろ 】

――「議員秘書」とは、どのような仕事をするのですか?

議員の政治活動全般をスムーズに行えるようにすること、そして、秘書自身もその政治活動の一端を担うこと。政治は意志をもって、ルールをつくること。だと感じています。
政治家が有権者へ「意思」疎通をするための政治活動には、二つのベクトルがあると思います。一つが、「私の政策はこうです、皆さん、賛同してください」というもの。もう一つが、「皆さん、意見を寄せてください、私が議会で伝えます」というもの。前者は政策主導型であり、後者は意見代弁型です。政治家がある地域やあるグループの意見を集約し代議するという考え方です。どちらにしても、政策や意見を伝え合う機会がなければならない。ですから、有権者の皆さんと政治家が意見のキャッチボールを行える双方向の関係を築くこと、そのパイプの精度を高め太くすることが、秘書の仕事の大きな役割となります。
また、国会議員の政治活動には、国会でのいわゆる議会活動や、政府での公務、政党での党務活動もあります。有権者の負託にこたえるべく、あらゆるシーンで議員がその能力を遺憾なく発揮できる環境をつくることも、秘書として欠かせません。
秘書の仕事の内容を大雑把に挙げると、後援会等の組織作り、後援会行事の企画、街頭キャンペーン、ポスター貼り、ホームページの管理、地域・団体行事への参加、陳情・請願等の処理、スケジュールの調整、車の運転、議員の随行、かばん持ち、政策立案の補助、各種資料の整理、スピーチ原稿の作成、政治献金の依頼、政治資金パーティの準備、慶弔事の対応、名簿データの保管、選挙管理委員会への報告、議員の代理・・・多様というか雑務も色々あります。
国会議員の場合、秘書も国会・永田町を中心に担当にする者と、地元・選挙区中心の担当に概ね分かれます。国会では、政策と政治資金を意識しながら、官公庁・中央企業・業界団体との接点が多く、地元においては、有権者の意見と選挙の票を意識し、地元自治体や団体の皆さんと交流したり、後援会づくりに励むことになります。
すべては、有権者の皆さんと意思を確かめ合いながら、皆さんの理解の得られるルールを議員が国会の場でつくるためです。
民間の企業と同様に、議員事務所も結果を出すために、戦略的に効果的に行わなければなりません。限られた資源、ヒト・モノ・カネ・時間を効率配分し、公職選挙法や政治資金規正法といった制約条件の中で、最大の効果を生み出すにはどうすればよいか、事務所の経営も政策実現のために必須だと感じます。

――秘書の仕事といえば、政治家の先生のスケジュール管理など、身の回りの仕事が多いイメージを持っていました。事務所そのものの運営をされているのですね。

議員事務所にとっても戦略的な運営はとても大事です。
衆議院議員の場合、選挙期間は告示から投票日まで12日間、火曜日から始まって次の土曜日まで、月曜日と日曜日は一日ずつのみ、そんな限られた時間しかない。その期間中だけ選挙運動ができる。「○○候補に投票してください」はこのときしか、言えません。
各候補とも、公職選挙法で定められた等しい条件のなか、有権者の意思や気持ちを票に換えて貰い、1等賞を勝ち取る・・・戦略的な選挙キャンペーンは、普段の秘書の活動、事務所の運営から育まれるものです。
議員事務所の規模は零細、中小企業の規模に近い。秘書は7人から10人ぐらいです。色々な業務を秘書は分業するのではなく、得意分野、適性、好き嫌いを含め、オーバーラップせざるを得ない。自ずと、各秘書は階層的にも横断的にも時間的にも(笑)、仕事の幅は広くなります。

――議員秘書にはどんなタイプの方がいますか?

よく言われることですが、秘書には政治家志望の人とプロの秘書に徹しようとする人がいます。また、プロの秘書でも、志向として、政策を中心にという人と、人・地域が好きで地盤の培養や人間関係の構築を中心にという人がいます。実際には、そのバランスが問題ですけど(笑)。

――中山さんは、毎日どういった生活をされているのですか? 会合も多いですよね。

常にどなたかとお会いしています。政治活動は意見や政策だけではなく、有権者の気持ちを大事にしなければいけませんから、最も良いコミュニケーションが取れる方法を考えます。シチュエーションは様々です。
会合も、地域や業種団体、趣味のグループ、企業の主催されているところへ伺ったり、後援会主催のセミナーであったり・・・老若男女、多方面の方にお会いします。
当事務所は、年中無休で基本的な開業時間は午前9時から午後6時まで。各々の秘書はローテーションで休日をとります。実際の秘書の業務時間は有権者の方々や議員の都合に合わせて変わります。
いわゆるBtoB、BtoCですから、お会いする相手の方の立場も、仕事上の場合と、プライベートの場合があります。会合は夜のほうが多いですから・・・時間の使い方を自分のペースにこだわる方は、秘書業はストレスが溜まると思います。時間の拘束が長くなると、どうしても集中力や動機も低下しがちですが、なるべく良い要領を発揮して、事務所の秘書一同、乗り切っています(笑)。

【 心地よい社会をつくりたい 】

――「政治」に関心を持ったのは、いつですか?

「みんなで、みんなの心地よい環境をつくること」・・・子供の頃からなんとなくそういうことが好きでした。やんちゃな遊びも大好きでしたけれど・・・
高校生ぐらいになってくると「遊び」の中に、煩悩いっぱいの自分でも、社会性や公共性、責任や義務も気になる、ちょっぴり世の中の不条理や不確実性も目につく、これからのビジネスチャンスも浮かんだり、実業と虚業に悩んだりする・・・自然環境にも懸念を持ったり・・・浅はかですが。
その頃、1985年9月、G5(先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議)によるプラザ合意(米国との貿易不均衡是正のため通貨調整と内需拡大)。深い理解も歴史観もなかったけれど、日本をとり巻く空気感が変わったような気がしました。プラザホテルのあるニューヨーク・マンハッタンの9月の気配、少し肌寒い、なんともいえない緊張感に晒されたような・・・日本は世界の金融経済の中で対峙していかなければならないんだって。
そんなことから、国際社会のルール、心地良くてシビアで愉しい社会システムをつくりたいと漠然と、本当に漠然とです。

――大学時代も、ルールや社会システムをつくりたいという考えを持って行動をしていたのですか?

どちらかというと、新しいビジネスモデルのほうが面白くて、ビジネスチャンスを窺っていました。
1990年前後は資産価格が相乗的に上昇し、過度に信用が創造され、消費も旺盛でした。1989年12月29日、東京証券取引所の大納会の日、日経平均株価は史上最高値の3万8915円になります。バブル最高潮です。
消費や流行を意図的に誘発する、広報とか広告とかマーケティングの分野にワクワクしました。いかに洗練されたPRを行い、ターゲットとする人達に浸透させることができるか。PRする中身もさることながら、付加価値を創り出し、最適なPR手法を考え実践するのが楽しかったです。大学を卒業するまで、仲間とそんなPR事業をしていました。

――中山さんは大学卒業後、銀行系証券会社に就職されていますが、PRや広告の分野には進まなかったのですか?

Public Relations=社会的関係を構築する広報活動、相互理解は、今まさに秘書として実践しなければならないと思っています。
大学の間、到底かなわないPRコンサルタント業の素晴らしい人達に出会えました。
魅力のあるPRや広告の手法には、流行もあるしセンスもいります。時代の風も読まなければなりません。できれば、そんな手法で、心地良いシビアなルールづくりをしたい。政治をいつかしよう。でも、その前に、大学卒業の機に、資本主義、自由主義の象徴的な世界を経験しようと。

――なぜ、銀行系証券会社を選んだのですか?

為替・金利・株といった金融市場でディーリングをしたかったんです。
私の実家は金属加工の商売をしていたので、「ものづくり」「物流」は目の当たりにしていた、幼少の頃からそこにあった。だけど、国際金融マーケットは難しかった、イメージが湧かない。
ミクロの為替の需給は見えても、現在のレートとボリュームになぜ収斂したのか、実需なのかリスクヘッジなのか、投資なのか投機なのか、何が相場に影響したのか、儲かるのか、いろいろと知りたかった。さらに不思議に思えた金利=債券の価格や取引についても・・・。
私にとって、資本主義の根幹である金融市場を体感しておかないと、政治の世界で「日本の金融、経済は・・・」とかって言いにくいなと思ってました。
当時まだインターネットも普及していなかったし、ネット証券もなく、自宅のパソコンでデイ・トレーディングという発想もなかった。ですから、ディーリングをしたければ、ディーリングのできる金融機関に就職する選択肢しかなかったと思います。
けれども、金融機関に入っても、ディーラーになるとは限りません。入社しても、その職に就くことができるか、可能性が高いのはどこかと考えました。会社の人的規模、本社機能・支社網とディーリング部門のバランスとか。できれば、いわゆる直接金融のプライマリーマーケット(発行市場)とセカンダリーマーケット(流通市場)の得意なところがいい、なんて。その中のひとつとして、銀行系証券会社がありました。

――どうやってディーラーになるための就職活動をしていたのですか?

直球勝負です。「ディーリングをやりたい」⇒「じゃあ、ウチに来い」と言って頂きました(笑)。
当時『ディーリングルーム25時』(加藤仁著、講談社文庫、一九九三年)という、伝説のディーラー・若林栄四さん(注1)をモデルにした本を読みました。最近は外資系でも活躍されている日本人の有名なディーラーはいますが、当時から若林さんは海外でも有名。カリスマ的な存在でした。それで、彼の薫陶を少しでも受けたいと思って、面接を受けたのがその証券会社でした。

――それほど「政治」を意識して就職活動をしていたわけではないんですね。

そうですね。まずはディーリングをすることをクリアしないと・・・。

【 どこでも通用する秘書になりたい 】

――では、政治の世界に入ろうと思ったのはいつですか?

政治の世界への転職を現実的に意識したのは、三十歳になるちょっと前から。

――何がきっかけだったのでしょうか。

金融市場にいて、感じていたことがありました。
1990年代のバブル崩壊以降のことを「失われた10年」といわれますが、まさに私がマーケットに携わっていた期間のほとんどが、日本経済の先行きの不安を計量分析し価格に変える仕事でした。日本企業は国際基準と国内事情の狭間で苦しんでいました。特に国際競争力のない分野、農業、金融、建設、流通において、非効率さが露呈しました。政官業癒着、護送船団方式、規制と保護というか・・・どれも政治が介在している。残念なことに、政治は不作為、しなければならないことをせずに、余計なことを介入しているように映りました。
資本主義や自由競争社会の象徴であるマーケットは公正で公平なルールと思っていましたが、案外そうでもない。政治の意志も介在している、時には余計な意思もあります。
私は、資本市場の“売り買い”の世界から、政治の意志とルールづくりの現場へ行こうと決心しました。

――政治をするために、まずは秘書になられたわけですね。

私は首都圏に通勤する普通のサラリーマンで、いわゆる無党派層・浮動票でしたから、普段の生活の中で国会議員にも地方議員にも直に接することはなかったです。ましてや、政治家の二世でもなく、タレントでもないし、NPOも主宰していないし、学者でもなく、ベンチャー企業の経営者でもありません。
どうすれば、政策の現場、選挙の現場の両方に携われるかと考えたときに、秘書という職業だと思いました。オーソドックスな選択です。

――秘書には、どのようにしてなられたのですか?

現在の事務所は、私にとって三つ目の議員事務所ですが、最初は、政治家の事務所に精通している方を探しました。そして、ある代議士秘書から松下政経塾(注2)出身の新宿を選挙区とする事務所を紹介して貰いました。
政治、特に選挙は地域そのものです。民主政治の基本であり、民意を反映する選挙は地域を単位として行われます。他の方法、例えば、年齢別人口構成比によって世代別の代表を選ぶという方法でもなく、男女比によって男女の議員数を確定する方法でもありません。あくまでも、地域が単位で住民によって選出されます。
地方主権、自治体間競争といわれるなか、個性のある、特徴のある地域=選挙区で秘書をしたいと思いました。
また、私は金融界からの転身でしたから、やはり財務金融分野をライフワークにした議員のもとで勤めたかった。そして、政党も自分の目で確かめようと思いました。
新宿の次は、世田谷区を地盤とする鈴木淑夫・旧自由党前衆議院議員の秘書になりました。言うまでもなく、世田谷は日本を代表する住宅街です。日本経済の高度成長期から現在までファミリー層を中心に絶大な人気があります。住みたいという能動的な気持ちもあり、競争意識もある方は、地域の将来と政治に対してシビアな関心があります。中には政治の限界を悟っている方もいますが・・・世田谷は政治的に素晴らしい母集団だと思います。
鈴木前代議士は、日本銀行理事、野村総合研究所理事長を歴任されたエコノミストでもあり、傍らで金融政策の真髄をお教え頂きました。
その後、神奈川県湘南を地元に活動する現在の事務所に来ました。江﨑代議士も銀行出身であり金融セクターを専門とする、自民党の若手衆議院議員です。湘南地域は東京への通勤圏でありながら観光資源にも恵まれ、マリンスポーツの盛んなリゾート地でスタイリッシュな文化が育まれています。
秘書としては、どこの地域、選挙区であろうとも、どんな政策であっても、通用したいと思います。秘書は意志も大事ですが、手法が重要ですから。

――政治家秘書になる方法は、紹介などに限られるのですか?

転職情報誌やインターネット・サイトに募集を出すこともありますよ。

――意外です。募集しているんですね。

最近では、議員インターンシップ(注3)制度もあるから、そこから政治の世界に入る人もいます。

【 リスクはとりたいときにとれ 】

――現在のような不定期で忙しい生活になることは、政治の世界に入る前から覚悟はしていたのですか?

覚悟以上だった(笑)・・・うーん、不定期、不規則にすることが、業務の効率を上げたり、自分を消耗させない手段なのかもしれません。ただ、仕事以外の仲間は減ってしまった、確実に。滅私奉公とまでは言わないけれども・・・自己都合を優先したい人には、しんどいかも。
日々異常が続くと日常になる・・・人間、どんなことにもだんだんと適応していくものですね。

――安定した生活から、不安定な政治の世界へ転職されたとき、悩みましたか?

多少悩みました。安定した生活を経験してしまったから。でも、政治の前に金融界=会社員≒安定を経験しておきたかったので。政治を外からではなく、当事者として、職業としてしようと思えば政治の世界に入るしか・・・過酷といわれようとも・・・
30才の時に転職しましたが、35歳までは、辞める、辞めないの判断をせずに兎に角やってみようと期限を決めました。石の上にも三年と言うけれど、政治が好きだから、五年やってみようと。自他ともに向いてないとなって、方向転換せざるを得なくなっても、ほかの道へ進むことができる年齢までならばいいじゃないかと。当時、金融界は35歳までの求人が多かったんです。だから、35歳までの五年間、唯一の職業だと思ってやってみて、それ以降を判断しようと考えました。
後になってわかったんですが、政治基盤を強固にすること、議員が当選を重ねていけること、それが不安定を安定に変え、悩みが解消されることなんだって・・・となれば、それを可能とする秘書としてのスキルアップ、事務所の運営を心掛けるしかない!
ちなみに、35歳は過ぎました。

――議員秘書になってみて、勤めていた証券会社との違いは感じましたか?

勿論、会社の規模による違いはあります。ひとりの仕事の守備範囲が広かったり、個人の能力に頼るところが大きかったり。
衆議院の解散は約3年周期です。つまり、議員事務所には、それだけリストラの危機があるということです。議員事務所の存続、秘書業の継続にためには、まず選挙に通らなければなりません。常在戦場というけれど、いつ解散するかわからない衆議院の選挙で、当落が決まる。選挙には、追い風や逆風、微風も吹きます。日々の議員や秘書、スタッフの地元活動では、カバーしきれない要素、次元もあります。しかも、良い政治をすることと、選挙に勝つことは違うかもしれません。そんな脆弱な上に雇用があるところが、最たる違いだと思います。
でも、結果を出さねばなりません。絶え間なく、議員が議員でいられるように、事務所が継続できるように、それに向って何をなすべきか・・・やりがいと思うか、不安と思うか。

――中山さんは、今の日本の政治をどうしたいですか?

政治が一流になることが、いまや日本の生命線だと思います!
日本をさらに誇りのもてる地域にしなければなりません。日本で生まれたからとか、日本語を喋るからではなく、能動的に日本に住みたい、拠点としたい、投資をしたいと思えなければなりません。他の地域、国との相対的な比較において、個性と魅力を発揮しなければなりません。
そのためには、まず、政治が、時代の潮流の変化、転換期に適応し、未来像、理念を提示し、責任ある政策、ルールづくりをすることだと思います。より計量的で予測対応型の政治にしたい。事態対処型ではなく、先に、先に・・・そうすれば、いわゆる国民的議論や合意形成みたいな、ひとりひとりがそれぞれの立場で考える時間、対応する時間ができるじゃないですか。
日本の政治自体が、日本の基幹システムのベースであって、精度の高い、信頼できる安心感のある一流の政治をすることこそが、日本の信用、魅力の根源そのものだと強く感じます。

――今、職業選択で悩んでいる若者にメッセージをお願いします。

就職活動の時期や大学卒業の時に、ぴったり、その後の人生の生業が見つかるなんて奇跡です。お目当ての企業に入っても、官庁に入っても、就きたい部門にすぐにいけないかもしれない。意地悪な先輩もいます。できるヤツもいる。きっと素敵なお姉さんもカッコいいお兄さんもいます。そんな不確定要素はつきものです。そこからレースは始まると思います。
でも、そうこうしているうちに、イケてるコトに出会う。必ず出会います。何故なら、そんなに長い間、不遇な仕事に普通の人は一生懸命、付き合いません。イケてる仕事か、次のシゴトか、趣味か、家族に走ります。
仕事を選ぶ、会社を選ぶ、彼氏彼女を選ぶ・・・選択というのはリスク、良し悪しが付いて来ます。リスクをとった分だけ、応分のリターンがある。職業において、いつリスク・テイクをするか、天職のためのリスクをとって欲しいと思います。
どの職業に就いても、つぎは、その職業を経験したひと、キャリアになります。レジュメに載せることになります。転職をしたり会社を変わる必要はないのですが、変わる時には、ヘッドハンティングの順序、ベクトルみたいなものがあると思います。この会社からあの会社へは行き易い、でもその逆方向は難しいって。
専門性が高い分野には、第二新卒(社会人経験三年未満の専門、短大、大学、大学院卒業者)での就職でも良いかもしれません。新卒は一度しかない。新卒の皆さんは、しっかりとした研修制度があるところで、時間を経て得意分野を作り上げ、仕事を見極めてほしい、スペシャリストになってほしいと思います。
好きな仕事をする、好きな会社に行く、好きな彼氏彼女と・・・その時、リスクがあってもいいじゃない!

(注1)若林 栄四(わかばやし・えいし) 一九六六年、東京銀行入行。一九八五年よりニューヨーク支店次長。一九八七年より、勧角証券執行副社長。一九九六年、退社。現在、ニューヨークに在住。外資為替コンサルタント会社、株式会社ワカバヤシ エフエックス アソシエイツ代表取締役。トレーダーやファンドマネージャーから絶大な支持を得ている。著書に、『大円高時代』『勝つドル 負ける円』(いずれもダイヤモンド社)がある。
(注2)松下政経塾 財団法人松下政経塾。松下電器産業の創業者である松下幸之助が、新しい国家を推進していく指導者育成を目的とし、一九七九年に、神奈川県茅ヶ崎市に設立。
(注3)議員インターンシップ 学生が在学中に、政治家の事務所で秘書の仕事やその補佐の業務を体験する制度。

インタビュー:2004年12月

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